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【ネタバレなし】映画「アフタースクール」伏線回収を楽しめるか?

人生に意味はあるのだろうか?

「人生に意味はあるのだろうか?」

 

 誰しも一度はそんなことを考えたことがあるのではないでしょうか?人生においては日々の生活の中で、楽しいこともあればつらいこともあります。そして、つらいことが発生して自分の許容量を超えてしまった時、人は人生の意味を考えがちです。しかし、この問いについて多くの人が考えたことはあれど、明確に答えられる人はなかなかいないのではないかと思います。

 

 このような問いに対して、ここ数年で有名になったオーストリアの心理学者アドラーは次のように言っています。

 

「人生の意味は自分で決めるものである」

 

 この言葉ひとつ取っても、様々な解釈があるかとは思いますが、人生の主導権は常に自分にある、ということではないでしょうか?そのように解釈した方が、つらいことに出会ってしまっても乗り越えられるような気がします。

 

 しかし、多くの人が人生の意味を自分で決めるよりも、他人からの定義を望んでいるのが現状です。そのひとつの例がSNS等で承認欲求を満たす行為ではないでしょうか。現代を生きる人は他人からの「いいね!」を通じて自分の承認欲求を満たしています。これでは人生の主導権は自分にあるとは言えない状況です。

 

 人間は肯定されたい生き物ですから、これは仕方のないことなのかもしれません。

 

 アドラーの言葉から考えれば、他人からの「いいね!」などなくても、それは自分の人生の一部として意味のある行為のはずなのです。しかし、現代社会に生きる我々は他人からの「いいね!」という承認がなければ、その行為に意味を持てなくなってしまっています。いや、もしかすると我々人間がもともとそうであったものが、SNSの普及によって、他人主導の人生をようやく可視化されただけなのかもしれません。そう考えれば、もともと人間は人生の主導権を常に他人に握られてきた生き物だったのかもしれません。人間は意味づけを自分でするよりも、他人によって意味づけをされることで肯定され、安心感を得られる側面は確かにあるのだと思います。 

 

 こと映画や小説においても、他人の張った伏線を他人によって回収されることが軸になっている作品が多いのも我々が他人によってものごとの意味づけをされることで安心感を得る生き物であることを表しているように思えてなりません。

 

 

伏線回収を楽しむ映画

 ここに一本の映画があります。

 タイトルは「アフタースクール」

 主演は大泉洋、佐々木蔵之介、堺雅人という豪華な顔ぶれです。

 

 中学教師の大泉洋のもとにかつての同級生を名乗る佐々木蔵之介が現れ、ストーリーが進んでいきます。作品中では、多くの謎が提示され、それらをクライマックスに向け一気に伏線回収していきます。この映画の特徴としてはその伏線の数が多い、ということが挙げられます。その多数の伏線を一気に回収していくことこそがこの映画の真骨頂で、そのスピード感にはジェットコースターに乗っているような爽快感すら覚えます。

 

 しかし、肝心の伏線と伏線回収が雑で強引なのがこの映画の物足りないところです。我々人間は意味づけを他人に委ねる生き物なのですから、その軸となる意味づけ、今作であれば伏線については確固たるものでないとその作品の価値が大きく揺らいでしまいます。

  

 我々人間はものごとに対して自分で意味づけしていくことが難しい、と述べました。こと映画においては、作り手にその主導権の大半があります。この作品では、伏線回収という手段が、目的になってしまっている感があります。せっかくの豪華キャストがもったいないなぁ、というのが正直な感想です。

 

(評価★☆☆☆☆)

 


『アフタースクール』 予告篇

 

  個人的には伏線は多いければ多いほどいい、というよりは以下の作品くらいがちょうどいい気がします。「タッカーとデイル 史上最悪についてないヤツら」はおすすめです。

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