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【ネタバレなし】映画「アイドル・イズ・デッド」ちゃんとしてない自由

「ちゃんとしなければいけない」という価値観

 我々は「ちゃんとしなければいけない」という価値観に支配されています。

 

 赤ん坊として無力な存在で生まれた我々人間が、年齢とともにちゃんとしていきます。「ちゃんとしなければいけない」信仰で育った我々が、社会の構成員となっていくことで社会には秩序が保たれます。

 

 一方で、いきすぎた「ちゃんとしなければいけない」信仰は、我々の人生を大きく苦しめることになります。我々は大人になるにつれ、様々なライフステージで以下のように「ちゃんとしなければいけない」ことを求められていきます。ある人は周囲の人々から促され、ある人は自発的に。

 

  • 学校を卒業したら定職に就かねばならない
  • 結婚したら保険に入らなければならない
  • 子どもが生まれたら家を買わなければならない
  • ギター弾きに部屋を貸してはならない
  • 愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけてはならない
  • 「いつやるか?」今やらねばならない

 

 我々はこのように「ちゃんとしなければならない」様々な規範の中でがんじがらめになりながら生きているのです。そして、我々はこのような規範からドロップアウトすることを何よりも恐れます。そのために自分の心身から発せられる救いを求める声を無視してまで無理をしてしまいます。「家族のため」などと言い訳をしながら、その結果、家族との時間がなくなってしまったり、思わぬ病気になり、結果として規範からドロップアウトせざるを得なくなるなど、本末転倒な状況に陥ってしまうのです。

 

 このような社会規範が存在する以上、我々は常に自由な存在に憧れます。つまり、「ちゃんとしなければならない」社会での自由な存在と言えば「ちゃんとしていない」存在です。このような存在に対して我々は強い憧れを抱くのです。

 

 しかし、「ちゃんとしていない」側の存在とみなされ「テキトー男」として羨望の眼差しを浴びていた高田純次氏が実は「ちゃんとしていた」人物であったということは、我々に深い絶望感を与えました。

 

「あぁ、結局この世界には真の自由などなかったのだ。」

 

 これはエンターテイメントにおいても同様です。例えば映画館に行くと、約2,000円の料金を支払うことになります。そのような金額を支払う以上、我々は映画に対しても「ちゃんとしなければならない」ことを無意識のうちに求めます。このような要求を捨て去ることが、小さな一歩ながら、我々の世界に真の自由をもたらすことにつながるのではないでしょうか?

 

 

明らかに「ちゃんとしてない」ことを指向した映画

 ここに一本の映画があります。

 出演者の演技は棒読み、明らかに費用のかかっていないセット、特殊メイク。挙げ句の果てには中途半端なゾンビ要素を取り入れたストーリー。まるでB級映画のショーケース。明らかに「ちゃんとしていない」側の映画、それが「アイドル・イズ・デッド」です。

 

 この映画の中で唯一ちゃんとしているものは、作中で披露される楽曲です。それもそのはず、この映画の出演はBiSというアイドルグループ。当時から楽曲の良さを評価され、炎上上等の型破りなプロモーションで多くの狂信的なファンを生み出したグループです。今をときめくBiSHの先輩にもあたります(BiSは二度解散しますが、今もメンバーを変えて活動しています)。

 

 この映画を真面目に見てはいけません。みうらじゅん氏が仰っていた「そこがいいんじゃない!」の精神で鑑賞しましょう。するとどうでしょうか。途端にこの映画が生まれ変わります。どんな制作費をかけた超大作でも2時間、完璧に作り込むことはほぼ不可能です。しかし、この映画は1時間の上映時間の間、「ちゃんとしていない」シーンしかありません。逆にレアです。

  

 こんな自由のない世界で、せめてこの映画くらいは「ちゃんとしていない」自由があってもいいのではないでしょうか。

 

(評価★★★★☆)

 

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